#080 人の運はわからないものであること(2)

天明三年卯の年(※1783)、浅間山が噴火した。上州(※群馬)、武州(※東京・埼玉)の甘楽郡・碓氷郡・緑野郡・片岡郡辺りには焼けた砂が一尺から三尺にも降り積もり、田畑・堀・川を埋め尽くした。浅間に近い軽井沢などには火のまま降ったため家も焼け、恐ろしいことこのうえなかった。

また、上州吾妻郡は浅間の後ろに位置しているのだが、この辺りは降り積もった砂こそ少なかったものの、浅間山頭鉢段という洞窟から溶岩が流れ出し、家屋敷を押し流し、人を埋め、家畜類は焼け死んだ。流れは吾妻の川縁から群馬郡・武州榛沢の郡にまで至り、利根川・烏川を横切って、場所によっては泥が一丈から二丈も堆積したため死傷者は少なくはなかった(私が御用中に記録した詳細は小冊子の形で関係各所に提出している)。 私は状況を調査し報告する御用を仰せ蒙り、村々を残らず回って見聞し、翌春までに災害復旧工事を終えた。

吾妻川の川縁に祖母嶋村という村があった。泥流が押し寄せた際、村人たちは恐れおののいて後方の山に命からがらよじ登ったのだが、翌日になって確認すると二十人ばかりが押し流されて行方不明となっていた。皆死んだものとして嘆き弔っていると、河原の岸に幼い子を背負って泥の中に打つ伏している者を見つけた。

急いで掘り出し、泥だらけの姿を洗うと、村の百姓の母親が孫を背負った姿だった。すでに祖母は事切れていたが、背中の孫には息があった。丸一日泥中に埋もれ背負った祖母が命を失う中、幼い子供だけが生き残ったのは不思議なことであるため、ここに記す。

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