#077 薬研堀不動のこと

薬研堀不動は元々本所の近辺に屋敷を構える御旗本の家に頭部だけが伝わっていた。作仏(※名品)との声も高かったのだが、しばしば不幸を招き、また、夢枕に現れるなどしたため、主人はこれをもてあましていたものの捨てるわけにもいかず、処置に困っていた。

その屋敷に出入りする海宝院という修験者がいた。あるとき、主人は海宝院にこう告げた。

「この御首みぐしをお譲りする。建立し、お祭りするとよかろう」

この海宝院という人は人一倍根気のある人であり、毎日この御首を背負い江戸中をまわって建立の奉加(※寄付)を募った。

元文の初め、今の不動のある所に茗荷屋庄左衛門という茶屋があり、その右の入り角に長い間空き家の間口九尺の店があった。海宝院は庄左衛門に相談し、一月二十四匁のところを金百疋に値切って借り受け、不動の御首を門口に置き、毎日鉦を叩くなどして町々をまわったほか、毎月二十七、二十八日には往来に寄付を募っていたところ次第に参詣する者も増えた。

その頃、茗荷屋庄左衛門は踊り子を集め不法に売春をさせていたことが露見したため追放となり、屋敷が空いた。そこで海宝院は隣を打ち抜き七間口としたところ、いよいよ参詣者が押し寄せて一年で集まった賽銭等は千両にもなったという。近所に住む大木口哲の語った話である。

口哲が若い頃、この不動の御首を置いて布教していたところに遊びに行ったことがあったという。海宝院は元々常陸の国の者であったが、親が病に伏して呼び寄せたため、やむを得ず不動一式を本所の弥勒寺塔頭の者に金百五十両で譲り渡して田舎へ帰った。今では弥勒寺にあり、別当(※寺主)は妙王院という者である。

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