#068 松平康福公の狂歌のこと

天明元年、老中の一臈いちろうを占めていた松平右京大夫輝高卒去の後、康福公が一臈を継いだ。松平左近将監・堀田相模守・松平右近将監・松平右京太夫まで、いずれも一臈と御入用方を兼ねられていたが、京兆(※輝高)卒去の後、御入用方には水野出羽守が仰せつけられた。康福公の家士などはさぞかし腹を立てているだろうと世間ではささやかれていた。

さて、ことを好む者の作り話か、あるいは防州公(※周防守、すなわち康福公)は元来博学で高い見識の持ち主であったため本当に御自分で詠まれたものか、次のような話が流行った。

「康福公が将軍の御名代として朝早く上野へお越しの最中、東叡山へ町屋から豆腐を納めに行く者が岡持に豆腐を入れ、片荷に担ぐものがなかったのだろう、石を天秤棒の片方にかけ、両荷にして下げていたのをご覧になった。なぜ石を担いでいるのかとのお尋ねに、駕籠脇の者が前後の釣り合いを取るためですとお答えした。

帰館の後、近臣にこの話をされ、面白いので狂歌を一首詠んだと申された」

世を担う心は安しあめが下豆腐に石も時のつり合

(※「天下の政務を執るに当たり不安はまったくない。片方が豆腐であろうが石であろうがバランスがとれさえすれば」。老中間の担当が当を得ていないことを諷しているらしい)


  • いちろう 首席。

コメントを残す