#059 水野家士岩崎彦右衛門のこと

有徳院様の御代に御取立に預かり老中として勤仕した水野和泉守は、元々小身の旗本の倅であり、俗世間のことをもよく見知っていた人であった。

本家の相続を果たした後御役目に就いたのだが、その頃から実力、人柄の程はひとかたならないものがあったという。

和泉守の御側付の者に岩崎小弥太という者がいた。あるとき、着替えの世話をしていたところ、もたもたしていたため和泉守が「遅い」と帯で小弥太の顔を打った。

小弥太は次の間に身を移し、髷を切り払い次のような書き置きを遺して去った。

「先代より御奉公いたして参りましたが、侍が顔を打たれた前例はなく、武士として忍従できるものではございません」

泉州は己の仕打ちを悔んだ。他の随臣も家中に騒動を招き起こさないとも限らないと主君を諫めたので、老臣を集めて言った。

「小弥太の行方を捜して呼び戻せ。まったく予の過ちであった」

これに老臣、水野三郎右衛門が異を唱えた。

「ごもっともではございますが、主君の過ちと申しては決して帰ってくるような小弥太ではございませぬ。主命に背いた不届きにつき切腹を申しつけるので戻れと申し渡しいたせば、必ずや帰るものと存じます」

泉州がそのように申し渡すと、果たして小弥太が姿を現した。泉州は小弥太に加増を申しつけ、納戸役を命じたということである。

近来、泉州は英雄との呼び声も高いが、小身から段々昇進したのであり、それを助けたのはこれら三郎右衛門と小弥太彦右衛門であった。今も彼らの子孫は左近将監家に仕えているという。


  • しょうしん 家格が低い。
  • かぞう 昇給。
  • なんどやく 金銀、衣服、調度の出納をする役職。
  • さこんしょうげんけ 泉州の子孫。

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