#042 大岡越前守の金言のこと

越前守忠相は、享保の頃出世して御旗本より大名となった。政庁の一角を担った人である。

大岡出雲守は、惇信院様の御小姓を勤めた際そのお心に叶い、段々と昇進して御側に至った。晩年には二万石までの御加増を賜り、御側御用人を勤めた岩槻の城主である。

出雲守が、まだ御側の御役についていた頃のことである。同姓のよしみもあって、越前守は折に触れ雲州の御屋敷をお訪ねしていた。

あるとき、雲州が越州にあらたまってお尋ねした。

「御身は現役で活躍された当時、世間に天下の大才と賞され、その重用ぶりはひとかたならぬものであったと伺っております。私も小身から御取立てに預かり、微力ながら御政事の一端に関わらせていただく幸運に恵まれました。どうか、心得とすべきことなどありましたら、ぜひとも御教示願えないでしょうか」

「それがしは不才であり、人に教えを垂れるなど思いも及ばぬこと。御身は若年でありながら将軍家のお心に叶った身。智慧といい、能力といい、至らないところなど、とてもありそうには思えませぬ。

しかし、年の功を経て老いた我が身であれば、多少なりとも御身の心得になるかも知れないことをまったく申し上げないというのも如何と存じますので、一言だけ申し述べさせていただきましょう。

すべて人に相対するときは身分の上下に関わらず、ひとつ心で接することを心がけるべきでありましょう。しかし、最も肝心なのはその際、真心をもって接することであると存じます」

雲州はこの言葉に深く感服されたという。

雲州の側向を勤めた大貫東馬という者(後に次右衛門と名乗る私の後輩)が「次の間に控えておりました際にお聞きしました」と前置きして語った。


  • おおおか‐えちぜんのかみ 【大岡忠相】ただすけ。
    江戸中期の幕臣。越前守。八代将軍徳川吉宗に登用され名奉行といわれたが、いわゆる「大岡裁き」は、和漢の裁判説話によって作為されたものが多い。町奉行ののち奏者番兼寺社奉行、三河一万石の大名となる。延宝五〜宝暦元年(一六七七〜一七五一)〈日本国語大辞典〉
  • じゅんしんいん 九代将軍家重。

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