#033 幽霊は存在しないとも言い切れないこと

 聖堂の儒学者で今は高松家に勤仕している者であるが名字は忘れた。佐助という者が壮年の頃、深川のあたりに講釈に行った帰りのことである。

日も暮れ、帰宅するには遅くなりすぎたため中町の茶屋に泊まり、芸者をあげて遊んでいた(この中町土橋は伎女の多い土地柄である)。

夜も更けた頃、階下から念仏を上げる声が頻りに聞こえてくる。ついで、階段を上がる足音が聞こえ、佐助の寝ている座敷の障子の向こうを通る者があった。なにやら恐ろしくなって障子の隙間から覗くと、両手を真っ赤な血に染め、髪を振り乱した女が歩いている。佐助はがたがたと震えながら布団を頭までかぶって息を殺していた。やがて、物音がしなくなったので同衾していた伎女に声を掛けた。

「いま、廊下を恐ろしい女が通ったのを見てしまった」

「ああ……。この宿の主はその昔、夜発やほちの親方をしててねぇ。大勢抱えていたンだけど、ひとりの夜発が病気になり、一日勤めては十日休むといった具合になってさ、親方が怒ってたびたび折檻を加えてたンだ。その妻には少しは慈悲心があったのか、折檻のたびに夫を押さえ、なだめてたンだよ。

あるとき、親方の機嫌がことのほか悪くて、その夜発をこっぴどく棒で殴りつけてね。例によって妻がその腕を押さえたンだけど、親方はますます怒って脇差を抜いて妻に斬りかかったところを、殴られていた夜発が両手で白刃を握って止めたのさ。当然、指は残らず落ちた。夜発はその怪我が元で死んだンだけど、このとおり夜ごと亡霊となってあの通り彷徨ってるというわけ。こんな有様だから、客足も遠のくばかり……」

佐助は夜が明けると金を払って早々に引き上げた。その後、しばらくしてその辺りを通りかかると、茶屋は取り壊され跡形もなかったという。


  • やほち やほつ。夜、辻などに立って通行人の袖をひき、売春する女性。つじぎみ。よたか。街娼。〈日本国語大辞典〉

コメントを残す