#014 仁君御慈愛のこと

有徳院様の御仁徳は、恐縮ながらその逸話を聞くたびに感涙を催すばかりである。

享保の御治世の頃に小出相模守という御小姓がいた。思し召しにも叶いよく勤めていたのだが、京都辰巳屋の公事に関わって収賄の罪を問われ、御仕置きを仰せつけられた。ごいgojouhouasdfa

この件について吟味が始まった頃、有徳院様は相模守の不行状をお聞き及びであったにも関わらず、いささかもお顔に出されることなく彼に御酒のお相手を命じられた。相模守は自分に司直の手が及ぼうとしていることに少しも気付かず、常のとおりに振る舞っていたところ、次の間から御側衆が現れて告げた。

「相模守殿、公務につきお出で願いたい」

相模守は彼らに付き添われてその場を去った。有徳院様は御盃をお置きになった。

「もう酒はいらぬ。下げよ」

そう仰って御膳を残らず下げさせた。事情を知らない御近習廻りの者達が何事だろうと緊張で身を固くしていたところ、有徳院様は彼らを見やって呟いた。

「……相模守が不憫じゃ」

そう仰って落涙遊ばされたとのことである。

「積悪の者をもこのようにお憐れみになること、その仁恵のありがたさよ」とある人が語った。


  • たつみやのくじ 元文4-5年(1739-40)ごろ、大阪の富商辰巳屋で、先代の弟木津屋吉兵衛が辰巳屋の財産を横領しようとして、当主の後見になったため騒動が起こった。吉兵衛は東町奉行稲垣種信の用人馬場源四郎を通じて種信に贈賄したので、当主久左衛門ら反吉兵衛派の訴状は却下された。そこで彼らは江戸へ出て目安箱に訴状を投じたので、評定所で事件が取り上げられ、その結果稲垣種信・馬場源四郎・吉兵衛ら大阪の関係者をはじめ、江戸町奉行所の役人やその家臣まで巻き込んで処罰されるという大きな事件に発展した。
    この事件は、評定所では大岡忠相も寺社奉行として担当官の一人となっていて、その日記に見える関心の強さから考えても、恐らく忠相の果たした役割は大きかったと推察される。この事件はまた世間の注目をひき、『町人考古見録』追加や『翁草』巻六十三に記載されているのをはじめ、歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなっているが、すでに宝暦元年(1751)には『銀のこうがい』という大岡忠相が事件解決に全権をふるう筋の実録小説が成立している。〈大岡政談1 解説p.191〉
  • くじ 訴訟、裁判。

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