#13 仏者の説く神祇信奉論

これらのことを考え合わせると、鎮守の神、氏神などがその所々の人を分担して治め給うことをわきまえ、寛平七年十二月三日の官符に「諸人の氏神はほとんどが畿内にある。毎年二月、四月、十一月の先祖の常祀をしない者が多くいるのは嘆かわしい。もし、申し請う者があれば(※祭を強制する)官宣を下す」とあり、氏神の祭を懇ろに行うようのたまえる例に倣って産土の神の祭を大切にしなければならない。

また、『塵添[土蓋]嚢抄』にも神に仕える心向きのことを次のように論じている。

「まず、その土地の神明に慇懃に奉仕して、なお余力があれば他所の霊験を仰ぐべきである。それに反する趣は『神宮雑事』という秘記に、人の世の例を引いて我が主を差し置いて他人に従うことに例えられている。

いったいなぜあからさまに我が神を差し置いて他所の利益を仰ぎ奉ろうとするのか。もし他所を伺うにせよ、主君に背いて他所に参るのは不当であると知ったうえでのことでなければならない。

であれば、狭い小さな土地に住まいしているとしても、その恩徳をないがしろにすべきではない。社が破損すれば、どんなぼろ服を着ようが餓死を覚悟してもその修復に奉仕すべきである。

(いま思うと、仏のことに関しては「ぼろ服をまとい、命をも懸けて」云々という人は多いが、我が身の本源である神のことについてそういう人のいないのは大変悲しむべきことではないか)

もし、当地の神が不信の者の過ちを咎めて祟りをなされるとすれば、いかに頼み奉るといえども他所の神が助けてくださることはないだろう。もし他所の祟りを受けたときは、当地の神は『我が恵みにより宥めてみよう』としてくださるに違いない。こうした心をもって仕えるべきである」

これはよく神の情状を伺い得ており、仏者としては例外的に実によく当を得た論説である。

ついでに、法師の中にもごく稀にまともなことをいう者がいることを示しておこう。『新拾遺集』の神祇で、法印源染が次のように詠んでいる。

後の世も此の世も神にまかするやおろかなる身の頼りなるらむ

(後の世もこの世のことも神に任せよう。愚かなる身の頼りはそれしかない)
(同書に藤原雅朝朝臣の「さりとてもねても覚めても頼むかなおろかなる身を神にまかせて」、『続後拾遺集』為世卿の歌に「後の世も此の世も神のしるべにておろかなる身のまよはずもがな」とあるのも同じ心を詠んだものである)

また、無住法師が『沙石集』に次のような逸話を載せている。三井寺の公顕僧正と申す僧は顕密を修めた学匠であり、道心のある人との評判が高かった。高野山の明遍僧都がその行業を慕い、善阿弥陀仏という厭世者にその人となりを見てくるようにと命じた。

善阿は高野日笠に脛高の黒衣を着て彼地を訪ね、訪問の理由を申し述べたところ、高野聖と聞いて呼び入れられ、夜もすがら話は尽きることがなかった。

翌朝、公顕が浄衣を着て幣を持ち、一間の帳をかけた所に向かって何やら所作を行うのを善阿はいぶかしく眺めた。これが三日間ほど続いた。善阿は堪えきれずに尋ねた。

「毎朝不思議な御所作をなさいますが、あれにはどのような意味があるのでしょうか」

「ああ、よくぞ聞いてくださった。都の中の大小の神祇は申すに及ばず、辺地辺国に至るまで見聞きした神すべてにわたり、日本国中の大小の諸神の御名を書き奉りこの一間に請じ置き奉っております。心経、神咒などを誦して出離生死の要道をお祈り申し上げておるのです。

我が国は神国であり、我らは皆その末裔。気を同じくする因縁は決して浅くはなく、この外の本尊を尋ねては本来の感応から隔たるといわざるを得ません。そのため毎朝あのような行を長年に渡って続けております」

善阿は「誠に尊い行いでございます」と随喜して帰り、僧都に伝えた。公顕は智者だから夢愚かな行動などするはずがないと考え合わせるにつれ、なるほどもっともなお考えであると僧都も随喜の涙を流したという。

青は藍より出て藍よりも青いように、仏から出て仏よりも尊いのは神明の利益の色である。かの僧正の行跡を慕い、心ある人はこれに倣うべしとするのは、両者ともにもののわかった法師であるといえよう。


  • かんぷ 太政官が諸国に下した公文書

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