#007 寅吉、平田宅を訪れること

十月六日、屋代翁から「今日の夕方、美成が寅吉を連れてうちに来る」と連絡があった。早速訪れて、またいろいろなことを尋ねた。その折、美成に「この子供は、いずれ山から誘われれば風のように姿を消すとも限らない。我家に招待したいのだが連れてきてはくれないか」と、頼むと「明日、お訪ねしましょう」とのこと。

大変嬉しく、佐藤信淵、国友能当など、つねづね寅吉に会いたいといっていた者にこのことを話すと、みな喜んで七日の朝から家に集まった。子供の好きなお菓子などを取り揃え、門人の小島から天狗小僧にどうぞといって贈られた新鮮な魚を用意して待っていたのだが、夕方になって美成から「今日は都合で行けません。また日を改めてお伺いします」との手紙が届いたので、みな残念がって帰った。家族門人ももう来るに違いないと朝から首を長くして待っていたのでひどく落胆していた。

よくよく考えてみると、美成は口ではああ言っているが寅吉を我家に連れてくるのを惜しんでいるようにも思える。このままではいつまでたっても連れてくることはあるまい。その間にも、もし山に帰ってしまったりすれば弟子たちは非常に残念がるだろう。ここはこちらから訪ねていくしかあるまいと考えて八日の昼前に妻と岩崎吉彦、守屋稲雄を連れて美成宅を訪ねた。

「昨日はお待ちしていたところ、残念ながらお越し頂けませんでした。家内の者共も楽しみにしていたので、本日こうして連れてまいりました。どうか例の子供にお目どおりを願えませんか」と頼んだところ、美成の母上が応対に現れた。

「あいにく息子は外出しております。寅吉は今朝母親の元へ出かけました」

やむなく肩を落として来た道をむなしく戻った。

後で聞いたところによると、このとき寅吉は家の奥にいて私達の会話を聞いていたのだが、家の者に「隠れていなさい」といわれ出ていけなかったとのことである。

途中、連れの者達が寅吉は母親のところにいることがわかっているのですから、そこを訪ねてはいかがでしょうかと頻りに勧める。それももっともなことだし、七軒町はそう遠くない。

ようやく寅吉の実家を訪ね当てると、そこは一間しかない、ひなびた長屋だった。母親がいたので寅吉は来ませんでしたかと尋ねると、「兄とけんかして下田様のところへ奉公に出ました後は、まったく音沙汰ありません」と、美成の家にいることすら知らない。

ということは美成の家で「母親の家に行った」というのは嘘だったわけだ。そのまま帰るのも悔しく、せっかくの機会なので寅吉の生い立ち、異人に誘われた経緯などを聞くと、生い立ちのことは詳しくお話し頂けたのだが、神誘いに遭ったことは最近になって世間の噂になってから知ったことらしい。

さて、この日もついに寅吉に会えずに帰ってきたのだが、その母親から彼の生い立ちなどを聞くにつれ、ますます彼にいろいろと尋ねてみたい気持ちが強くなった。美成のやりくちは許せないが、ここは彼に取り入るしかないと諦め、贈りものなどし、屋代翁、寅吉の母親などからも頼んでくれるよう手配したところ、十日の昼になって「明日の夕方に参ります」との手紙が届いた。このときちょうど佐藤信淵が居合わせ、彼も大変喜んでくれた。七日に自分と一緒に遠い四谷の里からわざわざ出てきながら寅吉に会えずに帰った国友能当にも私から知らせますと言って帰った。

十一日の朝早く、屋代翁のもとへ「夕方に美成が寅吉を連れて我家に参ります」と手紙を書いた。この日、江戸に勉強しに来た下総国香取郡笹川村の須波神社の神主、五十嵐対馬という者が我家を訪れた。三時頃には屋代翁が孫の二郎君を連れてやってきた。国友能当、佐藤信淵も到着した。折よく青木並房も来合わせた。小嶋は家族でやってきた。そのほか門人は竹内健雄、岩崎吉彦、守屋稲雄らがいた。四時を過ぎても美成達が現れないため、屋代翁が手紙を書き、使いを出そうとしたところ、寅吉を連れて美成が到着した。これが寅吉が我家にやってきた最初である。


  • さとうのぶひろ 1769-1850(明和6-嘉永3)
    江戸末期の経世家(おもに江戸時代中期以降、現実の社会的問題を直視し、その解決策を考案した学者)。字は元海,通称百祐,椿園・融斎・松庵等と号す。羽後雄勝郡の人。農政学者の父信季と13歳より諸国を巡歴,16歳で父を失い遺言により江戸に出て,蘭学・本草学を宇田川玄随,儒学を井上仲竜,天文地理を木村泰蔵に学ぶ。のち神道を吉川源十郎,国学を平田篤胤に師事,影響を受けた。彼の所説は,太宰春台・林子平・本多利明らの業績を継承し,当時の蘭学・国学の成果を吸収して,自己の家学(農政・経済・物産・兵学・天文地理等広範にわたる)を集大成したものである。膨大な著書を著したが,誇張・翻案が多いとする見方もある。思想的成熟は文政期(1818-30)で,《経済要略》に始まり《経済要録》《農政本論》《混同秘策》等を発表。篤胤入門(1815)を機に《天柱記》《鎔造化育論》が成立,〈うぶすなの神意〉の上に農政学・農本主義的な生産力説を展開し,国富の増進,さらに富国強兵の〈垂統国家〉の構想にいきついた。1838年(天保9)《物価余論》,45年(弘化2)水野忠邦の諮問に答えて《復古法概言》を著す。管子等の影響のもと,復古法と呼ばれる徹底的な商業統制論を展開,貿易の必要性とその官営を主張し,幕政・経済の行き詰りを打開しようとしたが,忠邦の失脚により実現しなかった。晩年,非合理ではあるが先駆的な統一国家構想を抱き,中国への侵略の前提として,樺太占領,韃靼(だつたん)の帰化を説く。《垂統秘録》(1857)では,政府に三台・六府を設け,人民を〈草・樹・鉱・匠・賈・傭・舟・漁〉の八業に分属させ,一種の国家社会主義的な日本像を提案した。その国家像は,外に海外侵略の軍国主義をふまえ,内に民衆支配の強化に支えられた徹底した絶対主義国家であった。ただし,権力を行使する主体は,天皇とも将軍とも明記せず,〈神意〉に基づく国君をあげて,故意か偶然か具体策を欠いた。明治国家の原像の先取りとして評価されている。〈世界大百科事典〉

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