#003 寅吉、神誘いに遭うこと(2)

「その翌日の昼過ぎ、約束どおり五条天神の前に行くと、あの老人が待っていた。俺を背中に負ぶって山へ行ったが何も教えてくれない。あちこちの山へ連れられて、いろいろなものを見聞きさせられるばかりだった。花を摘み、鳥を捕らえ、川で魚を取ったりして遊び、日が暮れるとまた背中に負ぶって帰された。そんな暮らしはとても楽しく、毎日約束の場所に行っては山につれていってもらう日々が続いた。親にはいつも下谷広小路の井口という薬屋の子と一緒に遊んでいるといっておいた。

また、あるとき七軒町のあたりを世に言う『わいわい天王』という鼻の長い、赤いお面をかぶり、袴をはいて太刀を腰に差し、赤い紙に『天王』という二文字を刷った小さな札をまきちらして子供を集める者が通った。『天王様は囃すがお好き、囃せや子供、わいわいと囃せ、天王様は喧嘩が嫌い、喧嘩をするな、仲良く遊べ』と囃しながら子供を引き連れて町を練り歩いている。俺も大勢の子供と一緒になって遠くまで付いていってしまった。

いま思えば本郷の先にある妙義坂という辺りまで来た頃、日はとっぷりと暮れ、あんなに大勢いた子供がいつのまにか誰もいなくなっていた。札を配っていた人が面をとったのを見ると、いつも負ぶってくれるあの老人だった。

『どれ、家まで送ってやろう』

二人で歩き始めたが、茅町という榊原殿の表門の前で、『お父っさんがお前を探しに来ているな。このことは内緒だぞ』という。それからまもなく、本当に父にでくわした。

『この子を探しているのではないかな。遠くまで遊びに来たらしく迷子になっていたので、ここまで連れてきましたのじゃ』

父はとても喜んだ。

『ご親切にありがとうございました。改めて御礼に伺いますに、お名前とお住まいはどちらで』

おじいさんは、でたらめの名前と住所を残して去った。次の日、言われた住所に父が訪ねていったが、当然そんな人が見つかるはずもなかった」

わいわい天王などと呼ばれる神社の札配りに、山の異人が混じっていることが稀にある。これについては後で詳しく取り上げる。さて、このときのことを母親に尋ねると、

「あの頃はお昼前から五ツ時まで帰ってきませんでした。誰と遊んでいるのかと聞くと、神田紺屋町の彦三郎だというので、日ごろ息子が世話になっているお礼にと、翌日夫が酒を持って紺屋町を訪ねたんですが、そのような人はついに見つかりませんでした。不思議に思って、地元の親しい酒屋に頼んで心当たりを探してもらったんですが、やはり見つからなかったのです」

とのことである。

「まあ、そんなこんなで毎日山に行っていた。はじめは南台丈という山だったが、いつのまにか同国の岩間山に連れられていった。そこで今の師匠に出会った。まず、百日断食の行をさせられ、その後、師弟の誓状を書かされた。そこで前々からの念願だった卜筮を教えてくださいと申し上げたところ、『それはたやすいことだが、お前にはまだ早い。まず、他のことを学ぶが良い』とのお返事だった。

武術、書道、神道関係、祈祷、咒禁(まじない)、符字(おふだ)の作り方、幣(ぬさ。御幣)の切り方、医薬の製法、武器の製作、いろいろな占いの方法、仏教諸宗の秘儀経文、その他あらゆることを学んだ。その頃もおじいさんに送り迎えをしてもらっていたが、親はもちろん、人には決して話さなかった。教えられたことを人に見せることはしなかったので、誰もその事には気づかない。それに、なにしろ家は貧しかったので、遊びに出ていて手がかからないのを喜んでいたから不審に思われることもなかった。

また、十日、二十日、五十日、百日余りとか山にいることもたびたびあったが、なぜか家族は俺が長い間家を空けていることにまったく気がついていない様子だった。こうして山と家を往復する生活は、七歳の夏から十一歳の十月までの五年間に及んだ。この間に、師匠や兄弟子のお供をして各地を見て回ることができた」

この頃のことを母親に尋ねたところ、「筆、こま、たこなんかを持って帰ってきたことがありましたねぇ」ということだった。


  • わいわいてんのう 大道芸の一種。江戸時代、猿田彦の仮面をつけ、古い黒紋付の羽織と袴を着、粗末な両刀をさし、「わいわい天王騒ぐがおすき」などといって、牛頭天王の紙牌をまき散らし、戸毎に銭を乞い歩いた者。〈日本国語大辞典〉
  • いつつどき 夜7時頃

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