#001 寅吉、客を大いに驚かすこと

文政三年十月一日午後四時頃、屋代輪池翁が面白い話を抱えてやってきた。

山崎美成のところに天狗のもとで何年も暮らした子供が来ているらしいぞ。会った者の話を聞くと、その子供のいうことは君の著作に書かれている事柄と一致するところが結構あってな。これから美成のところにその子供を見に行こうと思うておるところなんじゃが、どうかの、一緒に?」

つねづねこうした人間に会う機会があれば聞いてみたいと思っていたことが山ほどあったため、草履を履くのももどかしく小躍りして家を出た。ちょうど伴信友が訪ねてくるのに出くわしたが「すぐ帰る」と言い残して道を急いだ。

美成は長崎屋新兵衛とも呼ばれる薬商人である。以前、私の門下にいたことがあるが、その後高田与清に付き、今は屋代翁の元で学問を修めている。広く読書を好む男だ。家は下谷長者町にあり、我家のある湯島天神の男坂からは七、八ほど離れている。屋代翁と美成の家は四、五町の距離である。

「屋代さん、神誘いに遭った者はものの言い方があいまいになるとか。特にあちらの世界のことになると途端に口をつぐんでしまうと聞きますが、その子供はどうなんです?」

「確かに従来神誘いに遭った者はほとんどがそのようにいわれておるが、例の子供はまったく違って、何でもあけすけに語りおるらしい。ある家に招かれた席で遠い西の果ての国に行った話をした折、迦陵頻伽を見たとかいってな、鳴き真似すらしおったと。

また、ある席で『神誘いに遭っても、包み隠さずものを言える時代になったんです』とか言うとったらしい。昔はあちらの世界のことが世間に漏れるのを嫌ったようだが、最近はそのようなこともないとかでな。どんどん質問して、忘れずに書き残してほしいのじゃ」

屋代翁は、何度も念を押した。

なるほど、そうだろう。従来決して世間には出されることのなかった秘密事、存在すら明らかにされない書物といったものが数多くあったものだが、近頃はずいぶんと風通しがよくなった。謎に包まれている神代の昔の事柄も研究が進むにつれ次第に明らかになっているくらいだ。外国からもたらされる物や情報も年々世間に広まっていることを思えばこれもみな神の御心であって、あちらの世界のことまでも情報公開されることになったのだろう。おそらく、これも機運というものが巡ってきたのに違いない。

などと、考えをめぐらしているうちに美成の家に到着した。折よく主が在宅であり、例の子供を座敷に呼んで我々に引き合わせてくれた。

子供はといえば、我々二人の顔をじーっと見つめたままお辞儀すらしない。見かねた主がご挨拶なさいと注意すると、ようやくぎこちない所作で頭を下げた。

どこといって変わったところのない普通の子供のように見えるが、十五歳という年齢には似つかわしくなく、外見は十三歳ほどにしか見えない。 目は人相占いにいう下三白であり、やや大きい。「眼光人を射る」という言葉を思い出させるその目には鋭い輝きがある。その他の部位も特徴があり、けだし異相といえる。

脈を診ると、三関のうち手首の脈がかなり弱い。六、七歳の子供のようである。腹を触診すると、小腹が充実して力がある。

子供は江戸下谷七軒町の越中屋与惣次郎という男の次男、名を寅吉という。文化三寅年十二月三十一日の朝に生まれ、その年も日も時刻も寅であったため、そう名づけたという。父親は三年前に死亡。以来、今年十八歳になる兄の荘吉が細々と商売を行い、母親と幼い弟妹を養っている。

寅吉の家庭については、後日私自身で住居を訪ねて調査した。母親によると、寅吉は五、六歳の頃よりたびたび予言らしきものをしたことがあったらしい。文化□年□月、下谷広小路で火事が会った前日に屋根に上がって「広小路が火事だ」という。人々が見ても何のこともないため、なぜそんな嘘をつくのかと叱ると「あんなに燃えてるのに、みんな見えないの? 早く逃げてよ」などというため頭がおかしいのではと思われていたところ、果たして翌日夜に広小路が焼けた。

また、あるとき父親に向かって「明日は怪我するよ。気をつけて」という。父親は相手にしなかったのだが、その翌日、本当に大怪我をしてしまった。

また、あるとき「今夜必ず泥棒が入る」というので父親がそんなことをいうものではないと叱りつけたところ、本当に泥棒に入られたということがあった。

また、まだ立つこともできずに、はいはいしていた乳児の頃のことを記憶していて話すこともあった。彼は生まれつき体が弱く、色は青白く、よく腹を下し、寝小便が多いなど早死にするに違いないと思われていたが、今年旅から帰ってくると見違えるほど丈夫な子供になっていたという。「荷車に轢かれて怪我をしたことがありましたが、けんかをして怪我をするよりはましですから」とは、さすがに母親の言葉である。

先のことがなぜわかるのか不思議に思い、どうやって知るのかと尋ねると「広小路のときは、前の日に屋根の上から見ると次の日に焼けたところから炎が上がって見えたからそういった。父さんが怪我をしたとき、泥棒の入ったときのことは、なんだか耳のあたりでざわざわと小さな声がして、どこからともなく『明日は父親が怪我をする』『今夜は泥棒が入る』という声が聞こえた。気がつくとそのとおり口が動いていた」と語ったらしい。

さて、寅吉は私の顔をつくづく眺めて何か言いたげににやにやしていたが、確信を得たように「あんたは神様だな。うん、神様だ」と、何度も繰り返した。いきなり何を言い出すのかと返事もせずにいると、

「あんたは神の道を信じ学んでいるのだろう」という。美成が傍らから「この方は平田先生といって、古学の神道を教えている先生だよ」と口を添えると「ああ、やっぱり」という。私はこれでまず驚いた。

「なぜわかった? 神の道を学ぶのは善い事かな、それとも悪い事かな?」

「なんとなく神の道を信仰されているお方だろうと心に浮かんだので、そう申し上げた。神の道ほど尊い道はないから、これを信じるのは大変善いことだ」

「わしはどう見えるかの?」

屋代翁が言った。寅吉はしばらく考えている様子だったが、

「あんたも神の道を信じているようだが、もっといろいろな学問を幅広く学んでおられるな」

「……神も仏もなく、ただ善い人になろうとしてきたことをいうておるのかのう」

これがこの子供に驚かされた最初の出来事である。


  • ぶんせい3ねん 1820年
  • やしろひろかた 屋代弘賢 [1758−1841]
    江戸後期の国学者。江戸・神田(かんだ)明神下の幕臣屋代佳房(よしふさ)の子。通称大郎(たろう)。号は輪池。塙保己一(はなわほきいち)の『群書類従』、柴野栗山(しばのりつざん)の『国鑑(くにかがみ)』の編集に協力したほか、幕命により『古今(ここん)要覧稿』を著し、また『寛政重修(かんせいちょうしゅう)諸家譜』などの編集にも従事した。該博な学識で知られる。ロシアへの幕府の返書を清書するなど、書家としても活躍した。天保(てんぽう)12年閏(うるう)正月18日没(嘉永(かえい)4年2月25日公儀に届出)。墓は東京都文京区白山(はくさん)の妙清寺に現存。多数の著作は、稿本のまま、国立国会図書館、静嘉堂(せいかどう)文庫、東洋文庫、国立公文書館、無窮会図書館などに伝わる。蔵書不忍(しのばず)文庫の多くは、死後、徳島藩阿波(あわ)国文庫に収められたが、1950年の火災により焼失した。〈日本大百科全書〉
  • やまざきよししげ 山崎美成 [1796−1856]
    江戸時代後期の随筆家。寛政8年生まれ。江戸の薬種商。小山田与清(ともきよ)の門人となり,家業をかえりみなかったため零落したという。屋代弘賢(やしろ-ひろかた),滝沢馬琴らと耽奇(たんき)会をおこし,「耽奇漫録」「兎園(とえん)小説」をあらわした。安政3年7月20日死去。61歳。江戸出身。字(あざな)は久卿。通称は新兵衛,久作。号は北峰,好問堂。著作はほかに「三養雑記」など。〈日本人名大辞典〉
  • ばんのぶとも 伴信友 [1773-1846]
    戸後期の国学者。安永(あんえい)2年2月25日生まれ。若狭(わかさ)国(福井県)小浜(おばま)藩士山岸惟智(やまぎしこれとも)の四男。14歳、同藩士伴信当(のぶまさ)の養子となり、翌1787年江戸に移住。通称州五郎。事負(ことひ)と号す。本居宣長(もとおりのりなが)の没後門人。壬申(じんしん)の乱に関する考証『長等(ながら)の山風』、外交史に関する考証『中外経緯伝』、式内社と式外の国史見在社についての考証『神名帳(じんみょうちょう)考証』(1813成立)、随筆『比古婆衣(ひこばえ)』(1847、1861)など国史の研究に優れた業績を残す。平田篤胤(ひらたあつたね)と親しかったが、1823年ごろから不仲となる。稿本類は宮内庁書陵部、国会図書館、静嘉(せいか)堂文庫、東洋文庫などに、蔵書は京都大学、小浜市立図書館などに現蔵。弘化(こうか)3年10月14日京都で客死。74歳。墓は福井県小浜市伏原(ふしわら)の発心寺に現存する。〈日本大百科全書〉
  • ちょう 約110m
  • かりょうびんが 仏教経典に現れる想像上の鳥。人頭鳥身で美声とされる。

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