#004 小野次郎右衛門、島流しに遭うこと(召し帰されること)

世間にひとりの馬鹿がいた。両国のあたりに「剣術無双 誰であろうと真剣で立ち会え たとえ斬り殺されようとかまわない」と看板を出し、日々見物人が鈴なりになっていた。この男を斬ることができずに、逆に木刀でしたたか殴りつけられた者は門弟となった。

この男の評判が次郎右衛門の耳に入り、このような馬鹿を天下のお膝元に置いておくわけにはいかないと門弟を引き連れて見物に行くことになった。傍らから馬鹿の演じる技を見て門弟一同薄笑いを浮かべていると、それが馬鹿の知るところとなり、ひどく怒った。

「なにを笑うのか。あのとおり看板を出し、誰であろうと真剣でかかってこいと言っているのだ。いざ勝負勝負」

彼の門弟があわてて袖を引いた。

「先生、相手が悪い。あれは将軍家の御師範、次郎右衛門ですぜ」

「たとえ御師範だろうが」

馬鹿は一歩も引かない。次郎右衛門もこれだけ嘲られては武士の恥。仕方なく河原に降りて「かくなるうえは立ち会いつかまつろう」と、鉄扇を手にして立った。馬鹿は正眼に構え、ただ一刀と斬りつけた。一見危うく見えたが次の瞬間、馬鹿の眉間は鉄扇により打ち砕かれていた。この事件が大猷院様のお耳に入り、師範たる者の行動ではないとして遠流を仰せ付けられたらしい。

遠流先の島でのことである。畑の瓜、西瓜を盗む曲者があった。これを捕らえようと島中の者が集まったが、大勢に手傷を負わせた曲者は周囲に瓜、西瓜の皮を並べた小屋に立てこもった。捕り手が押し込もうとするとこの皮により足元が滑り、そこを狙われまた死傷者が多数出た。

困り果てた島民が次郎右衛門に訴えた。

「なんとか曲者を捕らえてはくださいますまいか」

次郎右衛門は深く考えもせず脇差を掴んで現場に臨んだ。

「小屋の周囲は滑ります」

注意の言葉を気にもせず小屋に駆け寄ったところ、果たして転んだ。待ち受けていた曲者が大上段から刀を振り下ろしたが、小野派の神業とも評された太刀筋。滑りながらも脇差を抜き放って上へ払うと曲者の両腕がぼとりと落ちた。たちまち曲者は捕縛の身となった。

この事件が江戸表に伝わると即座にお召し帰しとなり、元の禄を賜ることとなった。

さて、そんなことがあって次郎右衛門が大猷院様の御前に召し出されたときのことである。彼は遠流の身となり、久しく剣術の修行を怠っていたことだろう、日夜、他流の修行を積んだ成果を試してやろうと思し召したか、「いざ次郎右衛門、立ち会え」との上意。

次郎右衛門が謹んで敷物の端に手をついて這い蹲っていたところを、上様はただ一打ちとばかりに木刀を振り上げ、気合いをかけた。その途端、次郎右衛門が敷物の端を掴んで引っ張ったため、上様は後ろへ転倒なさってしまった。以来、上様は一刀流の修行に専念されることとなったという。


  • おのただあき ?-1628(寛永5)小野忠明
    一刀流剣術の大成者で将軍徳川秀忠の剣術師範。通称次郎右衛門。旧名神子上(みこがみ)典膳。上総国(千葉県)出身。24~25歳のころ伊藤一刀斎の弟子となり一刀流の道統を継いだ。1593年(文禄2),見込まれて徳川家康の家人となり,柳生宗矩(むねのり)とともに秀忠の師範となって小野姓に改めた。直情径行,妥協や要領のよさをきらった忠明は,いわば処世術に欠け,対人関係で衝突を起こすことが少なくなかった。大坂夏の陣では旗本たちとの間で争いを起こし閉門させられたり,将軍相手の剣術稽古でも手かげんを加えずきびしく立ち合ったので,しだいに疎んぜられるようになったという。また後世の作り話であろうが,真剣の宗矩に対して,忠明は燃残りの薪をもって立ち合い,宗矩を翻弄(ほんろう)し衣服を炭だらけにしたといった武勇伝は数多くある。小野家は忠明の子小野次郎右衛門忠常が相続し,小野派一刀流として代々徳川家に仕え,柳生家とともに将軍家剣術師範として続いた。〈世界大百科事典〉

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