#003 小野次郎右衛門の出世のこと(伊藤一刀斎のこと)

剣術の流儀を広めるために諸国を修行しながら巡っていた伊藤一刀斎は、あるとき大阪へ向かう淀の夜船に乗り合わせた。この船の船頭は腕力には相当の自信を持っており、一刀斎が木刀を携えているのを見て言った。

「お主は剣術を修行しておられるのか。剣術は人に打ち勝つ技なのだろうが、俺はどんな剣の達人であろうと負かせる自信がある。ひとつお手合わせ願いたい」

一刀斎が男の様子を観察すると、かなりの猛者のようである。どうしたものかと迷ったが、剣術修行に出た身でありながら勝負を受けないのは命を落とすより恥ずかしいと考え、互いに死を覚悟して岸に上がった。

船頭が櫂を片手に持ち拝み打ちに一刀斎に襲いかかったところを身をかわして外すと、力余って地面に櫂が刺さった。引き抜こうとしたところを一刀斎が木刀で櫂を打ち落とし、両手を押さえたところで船頭が降参した。以来、弟子となって諸国を共に歩くことになった。

船頭はもともと人並み外れた腕力の持ち主であったので、諸国における立ち会いの際も一刀斎自身は手を下さず、船頭が代わって試合を受けた。勝負を持ちかけた者はいずれも降参し、門弟となった者も多かった。

しかし、この男は元来身分が卑しいうえに性根も腐っていた。一刀斎に負けたことを恨みに思っていたと見えて正面から勝負を挑むことはなかったが、夜、旅籠に宿泊した折りは一刀斎が眠ったのを見計らってつけ狙うことがたびたびあった。しかし、一刀斎も用心し隙を見せなかったため、むなしく供をして江戸表へと出るに至った。

このとき、将軍家から一刀斎に召し抱えのお声がかかったが、彼は諸国修行を終えていないことを理由にこれをお断り申し上げた。本人がだめなら門弟を推挙するようにとのお申し出に、一刀斎は小野次郎右衛門の名を挙げた。召し抱えが決まると、船頭がこれを大いに不満とした。

「俺は他の弟子に先駆けて一刀斎に従い、ともに流儀を広めた功績がある。今回、将軍家のお召しに末弟子の次郎右衛門を推薦するとは心外だ。これでは生きている甲斐がない。次郎右衛門と真剣勝負で雌雄を決したい」

「確かにお前は最古参の弟子だが、これまでたびたび私の命をつけ狙っていたのを忘れたとは言わせぬ。これまで生かしておいたことをこそ有り難いと思え。だが、次郎右衛門と生死を決したいというのであれば、望みどおりにしてやろう」

一刀斎は次郎右衛門を呼び、事情を説明のうえ勝負するよう言い渡すとともに奥義を伝授した。

勝負は一瞬だった。次郎右衛門の刀が一閃するや、船頭の命ははかなく露と消えた。

さて、召し出された次郎右衛門は牢内に囚われていた剣術者との勝負を仰せつけられたが、これもまた妙技を顕して勝利を得た。これにより次郎右衛門は一千石の扶持を賜ったという。


  • いとういっとうさい 1560?-1653?(永禄3?-承応2?)
    一刀流剣術の祖。名は景久。幼名は前原弥五郎。剣豪で知られるが,経歴は不明確である。生国についても伊豆伊東,伊豆の大島,江州堅田,加賀金沢など定説がない。生没年についてもいくつかの説があるが確証はなく,それだけに伝説や逸話が多い。一刀斎は我流の剣法であったが,富田流の鐘捲自斎(かねまきじさい)に学び一刀流を創始したといわれ,全国を周遊して真剣勝負をなすこと33回,敵をたおすこと57人と伝えられる。鎌倉八幡宮で無意識のうちに人を切り夢想剣を開悟したとか,愛妾と酒を飲み,蚊帳の中で寝ている間に裏切った愛妾が刀を持ち出し,賊を招き入れ襲われるが,相手の刀を奪って危地を切り抜け仏捨刀(ふしやとう)を編み出したなどの俗説は有名である。弟子の神子上(みこがみ)典膳(小野忠明)と小野善鬼が決闘して,勝った典膳に一刀流の道統を伝え,その後一刀斎の行方はわからない。一刀流とは,万物一より始まり,一刀より万化して一刀に治まり,また一刀より起こる理からであるといわれる。〈世界大百科事典〉

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