以上のように論じてひとまず筆を置いたものの、さらに産土の神のことについていくらか付記し、また最近見聞きしたことについて考えるところを二、三書き連ねてみようと思う。
倉橋与四郎氏が拙宅を訪れて次のような話を語った。
文化十二年のことである。小石川戸崎町に住む石屋長左衛門という石工の弟子であった丑之助は重い瘡毒を患った。その病状を診た医師は「これは治らん」とさじを投げた。
丑之助は人並み外れた大酒呑みであったのだが、讃岐国象頭山の神に願を掛けて酒を断ったところ、あれほど重かった病が徐々に癒えた。とはいえ、何よりも酒が好物だったため禁酒を守りがたく、ときどき「酒しほ」と名付けた野菜を酒に浸したものを呑むことなどもあったという。
ちなみに讃岐国象頭山は、彼地の別当金光院正伝の秘事として記されたものによると、元は琴平といい、オオクニヌシノカミの奇魂、オオモノヌシノカミを祭った山であったのだが、天竺の金毘羅神という神に形勢感応が似ているため混合して金毘羅と改めたのだという。これは比叡山において大宮として三輪のオオモノヌシノカミを祭っていたところに金毘羅神を混合したのに倣ったものではないか。だからこそ金光院の秘密書にも出雲大社、大和三輪、日吉大宮の祭神は同一であるといわれるのだろう。
なお、この後に白峰から崇徳天皇の御魂を遷して配祭したとのもっともらしい説もあるが、書籍に記録がないのでここでは論じない。しかし、これは人口に膾炙している説でもあり、これこそが神の御心でもあろうと思われるので、これが真実であると証明されるときがいつか来ることもあるだろう。であれば、金毘羅という名こそ仏ではあるものの、その実はやんごとなき神なのであるから決しておろそかに思い奉るべきではない。さて、俗の神道者、修験者といった輩は独自にカナヤマビコノミコトであるという説を主張しているが、これは金の字から思いついた極めて杜撰な言い分に過ぎず、取り上げるに値しない。
さて、その年の九月十日は土地の鎮守氷川大明神の祭日であった。その前日、若者達が丑之助を誘った。
「狂踊を踊らせたらお前の右に出る者はいねえ。明日は踊ってくれるだろうな」
「俺は瘡毒で死ぬところを金毘羅の神に願を掛け、酒と引き替えに治していただいたのはお前らも知ってのとおりだ。酒も呑まずにあの踊りはできん」
若者達はいきり立った。
「明日はほかならぬ鎮守の神の祭じゃねえか。酒も踊りも神様に捧げるんだぞ。なんの悪いことがある」
丑之助はなるほどとうなずいた。
当日は朝から友人達と酒を呑み遊び、すっかり酔っぱらっていたのだが、巳の刻あたりから急に高熱を発した。
「熱い、熱くて我慢できねえ。金毘羅様、どうかお許しを」
周囲の人々は驚いた。
「なんだ。どうした」
丑之助は庭を指さした。
「あれが見えんのか。金毘羅様があそこにおわすというのに」
皆で庭をまじまじと見つめたが、一向にそのような姿は見えない。
「神様はどのような姿をしておられる?」
丑之助は火のように熱い息を吐いていった。
「黒髪を長く垂らし、冠装束を召されて雲の上にお立ちになっている。たくさんのお供を引き連れ、爪折りの緋傘が横から差し掛けられている。御前には鬼神のような力士がいて神の仰せを承っている。
『汝は病で死ぬべきところを強いて祈るので癒してやったのだ。しかるに折々密かに少しずつ酒を呑むだけでなく、今日は朝から思うままに酒を呑んで酔いしれるとは何事か。手足の指を皆折らせる。思い知るが……』」
いい終わらぬうちに丑之助は身をかがめ「お許しを、お許しを」と大汗を流しながら泣き叫んだ。何者かに押し臥せられて足の指を折られているようだった。その恐ろしさはとても筆舌に尽くせるものではない。しかし、若者達が勇気を奮い起こし力を合わせて引き起こそうとしたところ、何かに投げられたようにみな突き飛ばされ、近付くことすらできなかった。
あまりに異常な出来事に居合わせた人々は怖気を震い、日頃は鬼がいるならかかってこいなどと威勢を張る男達が我先に逃げ出す有様だった。片足分の指がみな折られたと思われるころ丑之助が「どうか、どうかお許しを、お情けを」と悲鳴を上げたが、ややあって「多久蔵司稲荷がお出でになった」といった。
「みな、離れろ」
丑之助は起き直って畏まり、そのままじっとしていたが、腹這いになって庭に出てひれ伏し、神々を送り奉る所作をした。この頃には転げ回ることはなくなっていた。人々は何があったのかと尋ねた。
「金毘羅の神のお怒りになる様は見るも恐ろしく、雲の上に座して俺を流し目で一目見るたびごとに俺を押し臥せた力士が足の指を一本ずつ折った。左の足の指はみな折られたかと思うと、これまた大勢の供人を従えた鎮守の神が束帯の姿で現れ、金毘羅の神に向かって仰った。
『こやつが御前に祈り、酒を断って病を癒されたことを忘れ、今日痛飲したことを咎めなさるのはもっともではあるが、もとはといえば我が氏子。特に今日は我が祭日であるために我を慰めるわざを納めようと人々にそそのかされて呑んだ酒である。であれば免ずる理由は十分にある。たとえ咎めなさるとはいえ、ひととおり我に話を通していただいたうえで罰するのが筋というもの。一言も連絡がないばかりか、我が氏子に思うがままに罰を加えなさるのはまったく道理に反する所行ではござらぬか』
金毘羅の神もこの理屈を受け入れたかのように見えたが、何の返答もすることなく互いににらみ合っていたところに多久蔵司稲荷の神がお出でになった。こちらは僧体のように拝見した。浅黄の深頭巾をかぶっていた。
この稲荷神は、その縁起を見ると当社は駒込吉祥寺、和田倉御門の内にあった頃から彼地に鎮座しておられた。伝通院の中興、廓山上人のとき、学寮に極山和尚という所化がいた。元和四年の四月のある夜、山主上人をはじめ、極山和尚、同学の僧の夢にひとりの僧が現れて「入学したいので明朝登山する」と告げた。翌朝、極山和尚の寮へ僧が現れて謁見を求めた。このことを山主に申し伝えると、あれは正夢だったかと不思議に感じて入寺を許し、多久蔵司と名付けた。
多久蔵司は智徳に優れて並ぶ者なく、諸人の尊敬を集めた。その後、三年の修行を経てある夜の夢に「我の真の姿は吉祥寺の稲荷神である。小社を作っていただきたい。永く当山の守護神となろう」と諭し白狐の姿を顕して去ったため、境内に社を鎮座したのだという。
狐神を祭ったものであるが、人々が稲荷と名付けて祭ったために自らも稲荷を名乗ったのである。稲荷神とはいえ、実は狐ではないのか。これについては別に詳しく論じたものがある。
さて、この狐神が僧体であることについてどういうことかと思う人もいるだろうが、伊勢国である男に老狐がついて様々なことを口走ったなかに「稲荷と名付けられた狐神は俗家に祭られたものは俗人の姿を顕し、寺に祭られたものは僧体を顕す。各々主人の格位によって狐神の格位も決まる」という言葉があったらしい。小竹真桿のもたらしたこの情報に合致する。
多久蔵司稲荷の神はお二方の間に平伏し、大変畏まっておられる様子で次のように語った。
「私は伝通院の多久蔵司でございます。金毘羅宮のお怒り、氷川明神の仰せ、ともにごもっともと承りました。とは申す事ながら、もとよりこやつの懈怠より起こったことでござりますれば、とにもかくにもお咎めいたすのは当然であるところ、こやつは折々我が元へも詣で来て身の上のことを祈るのでこの場へ参上した次第でございます。
お二方のお怒りは私めが頂戴いたします。こやつの罪を免じていただきとうございます。免じていただければよくよく言い含め、金毘羅宮の御許へ参詣させましょう」
二柱の神はそれに御心を和ませたようで、互いに式代して、厳かに立ち別れなさった」
丑之助は大きな息を吐き、わななきながら語った。結局、左足の指三本が骨折していた。
人々は一部始終を目の当たりにしていたため震え上がり、金を出し合って路銀を調え、丑之助を象頭山の御社に参詣させたところ、折れた指も元通り治ったという。
- そうどく 梅毒。
- くしみたま 神秘な力を持つ神霊。また、そのような霊威の宿っているもの。〈日本国語大辞典〉
- おおものぬしのかみ 大和の三輪山に鎮座する神。大神(おおみわ)神社の祭神。大国主神(大己貴神)の異名。大三輪神とも大物主櫛
玉(くしみかたま)命ともいう。「オオモノ」の「モノ」は物質という意味よりも、いくらか下等な精霊で沖縄語の「ムヌー」と同じことと思われる。したがってこの神は日本の古代社会における偉大なる精霊であった。〈国史大辞典〉
- しょけ 修行僧
- しきだい 解由の一つ。延喜式に定める様式の解由(式解由)に代わるもの。式解由が前任の国司に雑怠(ぞうたい)のない旨を書き証するのに対し、式代解由は前任以前の国司に雑怠があったが、前任にはなかった旨を書き証明するもの。〈日本国語大辞典〉
- げゆ 官人交替の際、後司が前司に交替が完了したことを認めて与えるもの。