吉宗公の御母堂様は浄円院殿と称し奉る。その御出生を承ると至って卑賤の御出身であり、御兄弟等も紀州のごく普通の町人であられたのだが、吉宗公の御出世に伴い浄円院様の御甥の巨勢両家とも五千石高を給わり、御側御奉公を仰せつけられたのだという。浄円院様は至って篤信の厚いお方であり、いわゆる「婦中の聖賢」とも賞されるべき行状で知られたお方であった。
吉宗公は母を思う心厚く、日々御様子を伺いに参られるのだが、その御帰りの際、浄円院様は決まって「三万石のときをお忘れ遊ばされ召さるな」とお声を掛けられたという。
また、巨勢両家が五千石を仰せ付けられたとき、次のように御意見された。
「以前から御当家に勤士している者、また、紀州からお供して参った者は如何様にも御取り立てすべきかと思いますが、巨勢兄弟は元来町人です。この身分の者を御取り立てするのは国政の道理に反しましょう。ありがたいこととは思いませぬよ」
さすがの吉宗公もこれにはすっかり困り果てたという。
「もっとも、いったん将軍の口から出たとあってはいまさら撤回することもなりません。ですから、巨勢兄弟を御役職に就ける仰せ渡しは決してせず、このままに差し置かれくださるようお願いいたします。その倅の代になって能力の見極めがつきましたら、如何様にも召し使ってくださいませ」
浄円院様はこのようにお願いしたため、伊豆守兄弟はただ奥へ身を置いているものの、生涯御役を勤めることはなかったという。
また、一位様からたびたび御対面のお申し出があったのだが、「賤しい身分の出でございます。歴々の御前へお出ましする身分ではございません」とそのたびにお断り申し上げていたのだが、西丸様の仲介で遂に御対面の機会を持たれた。その際も遙か離れた次の間に身をお置きになり、御挨拶等も御近習の女中衆へするのみで終始敬い、憚っておられたということである。